塾づけ症候群

子どもにでもおとなにでも塾づけ症候群といってもよい重い病状を感じることが多くなりました。不合格の原因を塾や資格学校のせいにして、ドクターショッピングならぬ、スクールショッピング、あっちの塾や資格学校、こっちの、そっちのと渡り歩くのです。残念なことにどの塾も資格学校もつまずいて困っている者を対象にする講座やコースはありません。似たり寄ったりの講座を受け直すだけなのです。やりなおし講座というのをつくるのが良心的な本物のもののはずです。

小学校の高学年ぐらいの学習事項からもうつまずいてしまっている子どもだけでなく、おとなも大半を制してしまっているのが現状です。決して、それはゆとり世代からのことではありません。算数では、小数の割り算辺りから怪しくなります。概念としての理解に欠けるのです。国語では、文章を読むという基本、動詞の活用から始まる言葉の音韻的・概念的・機能的理解のあたりで出遅れてしまいます。それで、当然、まともな日本語が書けない大人が溢れることになります。

学校はもちろん、塾に行っている子どももつまずきは、つまずいたまま、そのままに、次に進んでいきます。塾に行かない子どもも、親からの監視と親から与えられた○○ゼミの教材や市販の教科書準拠問題集をひたすら答えを埋めることを強制され、学校や塾と同様教材をこなしていくだけです。

どこにいっても、自らの好奇心や探究心を持って学習に取り組むという本当に大切なことを身につける機会が奪われてしまっているのです。マークシートやタブレット学習に代表される、結果だけの学習に終始して、学習に大切なプロセスが疎かにされています。実は、親からも塾からも学校からも放置された子どもたちが一番深刻なのですが。

子どもと向き合い、対話によって、子どもの探究心や思考力を育てること、それこそが古代ギリシャからつづく職業人としての家庭教師(チューター)が求めてきたもの、教育の理念的な一番の方法なのです。ゆとり教育が非難されましたが、ゆとり教育の理念は非難すべきものではないと思うのです。むしろ、その理念は、教師にとって、しんどいゆとりのないものとなるはずのものだったの思うのです。

子どもから謙虚に学び、子どもとともに成長する親や教師が、 良い親であり良い教師であることには間違いありません。わたくしは、学校にも塾にも親にも、手抜きを感じて仕方がありません。未来を見つめ、夢ある未来を築く子どもを真剣に育てたいものだと思うのです。

それにしても、カッコイイからとかいって、子どもにあれもこれもと習い事をさせ、ペットのように服従させている母親が多くなりました。

「先生、ことわざにもあるでしょう。親以上に子どもは育たないものです。うちの子は本当によく頑張っていると、感心しています。」

ということを口癖にしていた親の子が、医師に弁護士になったりしました。

子に対して、正直に謙虚に温かく接した親のその姿を知っていれば、すべてその結果も納得できることなのです。

親も子どもから学び、また成長をするのです。

魔の小学5年生

落ちこぼれという言葉がありますが

5年生から本格的に始まるということがいわれます。

一気に、知識が盛りだくさんになるからです。

学校で、オール4以上から5が半分あたりの成績でいた人は、成績に対する過敏さ、優越感と劣等感の両意識を持って生きているなと感じてきました。資格学校で教え、そのあと、成人に個人指導するようになって、ますますその意を強めました。

自分はできるほうなのだと自負しながら、分からないままに過ごしてきてしまったことが多いとも自覚ができていて、却って、学ぶことに自信を失ってしまっているのです。また、わからないことをそのままにしてしまっていることにくよくよしていても、分からないままに放置しまっているのです。

そして、大人になっても、なぜか、そのままの生き方をひきずってしまうのです。できないほうが開き直ることができてしまうのにです。学校の勉強が全くできなくても、仕事を事業を立派にやっている先輩はいくらでもいるのにです。その反動が形を変えて人格に止まらず、社会の形成に影響を与える場合も多いのです。学校の病理、社会の病理ともいえるのかもしれません。案外、それは、学校という社会、教師に巣くっていることかもしれません。教師にそんな人が多いのです。そう言えば、訓練校の先生が元教員は資格が取れないと断言していました。序列の弊害そのものの現れです。

その始まりが小学5年生です。学力テスト1位の秋田では、そのはじまりの5年生に着目しているようなのですが。

さて、自信を持って生きることの大切さ、主体的に生きることの大切さは、シュタイナーが教えています。わたくしは今から、40数年以上も前、それをもじって、「したいなあ学院」と名付け、プレートまで作って、出世払い方式の無料の塾を構想していたことを思い出します。わからないままにいること、わからないことがあること、わたくしはもちろん、ほとんどの人が感じていること、感じるべきことでもあることなのです。謙虚さは,自信をもって生きるうえにも大切な価値なのです。

試験問題から覗ける学校文化

長年、受験に携わって、長い年月、その学校の試験問題に触れていると、学校の持つ文化が垣間見えてきます。ごまかしの効かないものといえます。

歴史と伝統のある学校の問題はその実力を示します。試験問題から、先生の力だけでなく、学校の文化や伝統の力がわかります。それはどうしようもなく現れてしまうのです。

学校を知りたければ、その入学試験の問題を見るのが一番とも言ってよいのです。できれば、優れていると評判の他校のいくつかと比較することをお薦めします。

高卒認定試験  合格してからが本当の勝負です

本人自身がその気になればその努力が報われる試験です。本人が、本気になれば、本人が覚悟した期間よりは、はるかに短期間に、高卒認定試験に合格しています。結果的に一教科の受験で認定されてしまうような場合もあります。試験自身の合格であるならば、それほどのものでもないなと思うことが多いのです。

ところが、その先のところで妥協を強いられることが多いのです。サポート校の推薦や自己推薦などの方法で進学できる学校が、ごくごく限られてしまっているからです。

高卒認定試験は高校の卒業資格、大学への入学資格が得られるだけで、目指す大学への進学にはもうひとつ入学試験という関門があります。それは高校を卒業しても、推薦入試を除いて、入学試験があるのと同じことなのですから、不平等でもなんでもなく当然と言えば当然のことです。しかし、大学入試との間に、極端に厚い壁を親も子も感じてたじろいでしまいがちなのです。

高卒認定試験合格は、これからの人生を切り拓く、第一歩にすぎないのです。高卒認定試験に合格してからが本当の勝負なのです。

すべての試験は、合格自身が目的ではありません。その先にあることをするために必要なのが資格であって一通過点に過ぎません。更なる飛躍のために更なる努力とそれに耐える気概をもって同世代と伍して堂々と闘い汗して得た合格の体験が、その後の人生に生きるものであることは間違いありません。同世代と共に青春を謳歌してこそ挫折からの卒業だと思うのです。わたくしは、それにこだわって指導して、悩むことも迷うことも多いのですが。

親御さんの心配をよそにたくましく成長する若者にわたくしは出会っています。しかし、そうそうあることでもありません。

英語の早教育

小学生や幼児が英語教室へ通うのが既に当たり前なっています。わたくしは、中学校で英語を教えた経験がありますが、幼児から英語塾に通っていた子どもたちから、「あれだけ時間をかけたのに、役に立たなかった」という感想をよく聞きました。

日本語教育と英語の早教育が学習の上で相互に干渉しあうという意味だけではなく、ただただ遊びにしかすぎないという意味のレベルででもです。

鳥飼久美子先生など実績のある英語指導者の「英語教育は、中学校からでよい」という考えに耳を傾けたいものです。

高校に国際コースなるものをたくさん設置され、海外留学の話をよく耳にしますが、その成果はいかがなものでしょうか。

40年も前にアメリカで遊び、30年も前にインターナショナルスクールで教え、帰国して英語を教えた者として、わたくしは、英語の早教育にむしろ否定的・懐疑的な意見を持っています。

母国語である日本語から、思考力や論理の能力、読書力の育成が、まず望まれるのです

人間は、国語というその文化遺産である言葉で考え、それに基づいて行動します。その形成が先決であるからです。外国でも、日本でも、外国語の早期教育の弊害による症例が相当の昔から報告されています。

実際、海外にいたときも、英語の教鞭をとっていたときも、英語を幼児から何年も習わせた親から、「こんなはずではなかった」という後悔の言葉を何度も聞きました。普通に、中学から、英語を学校で習い、それだけで、TOEIC満点に近い人や英検1級に合格した人がわたくしの身近にもいるのです。

そうは言いながらも、小学校に英語の学習が始まってしまって、最近は、求めに応じて、小学生に英検の指導をしてきてしまいました。わたくしは、NHKのラジオやテレビでの基礎の英語番組から始めることを、英語を教えはじめたときからずっと薦めてきています。

英語の早教育、それによって、失うものは、決して少なくないと改めて感じてきています。

学校選び 塾選び そして合格する親の条件

鶏頭となるも牛後となるなかれ

塾選びには、牛後でがんばる選択も大いに意味があります。

しかし、学校選びにはこのことばに全面的にしたがうべきです。多くの親御さんはお子さんのことを考えないで、自分のその場の見栄のために牛後になるのが目に見えている選択をしがちです。学校選択をする時期がくるたびに、その思いを強めることです。

孟母三遷の教え

よい学校はそうそうあるものではありません。

学校の特性や雰囲気などその学校の持つ文化はお子さんを決定的に左右させます。個性が強い学校ほど様々な問題を生起させます。なぜか、必要以上に宿題を出したり、強権的であったり、また、いわゆる成金趣味であったり、そんな学校が繁盛しています。

お子さんが合えば、それはそれでよいのかもしれませんが。

学校選びに限らず、何に対してもそうですが、それを選択した理由や意味を繰り返し自問すべきです。

たまたま合格したうち、難易度だけの基準で学校を選択し、入学を決定するという学校選びをしがちです。小学校受験や中学校受験が盛んで、そんな風潮を煽っています。長い間勉強して、せっかく合格した学校なのだからという調子でです。ろくでもない学校は、公立校・私立校を問いません。学校自身をよく調べておくべきです。いくつか学校があれば、ランクの高い低いは当然に生まれているだけなのです。

よい学校はそうそうあるものではないことを心してください。

子とともに成長できる親であること

音楽の教育法に鈴木メソッドといわれるものがあります。

楽しく学ぶ、親も子とともに成長するという教育の要諦を簡潔に示しています。 子どもを産めば親になりますが、子育てはそのための学習によってはじめてできるようになるものです。よい親になるにはよい親になるための学習が欠かせません。

学校の後にこそ

学校に入ることが目的でないと同様、卒業することが最終目的でもありません。社会に巣立つための準備が学校の目的なのです。子どもを見つめ、その個性を生かし、少々の子どもの迷いにたじろがず、将来に向かって自ら羽ばたたこうとする果敢な子どもに成長させる、そんな賢明な親でありたいものです。