魔の小学5年生

落ちこぼれという言葉がありますが

5年生から本格的に始まるということがいわれます。

一気に、知識が盛りだくさんになるからです。

学校で、オール4以上から5が半分あたりの成績でいた人は、成績に対する過敏さ、優越感と劣等感の両意識を持って生きているなと感じてきました。資格学校で教え、そのあと、成人に個人指導するようになって、ますますその意を強めました。

自分はできるほうなのだと自負しながら、分からないままに過ごしてきてしまったことが多いとも自覚ができていて、却って、学ぶことに自信を失ってしまっているのです。また、わからないことをそのままにしてしまっていることにくよくよしていても、分からないままに放置しまっているのです。

そして、大人になっても、なぜか、そのままの生き方をひきずってしまうのです。できないほうが開き直ることができてしまうのにです。学校の勉強が全くできなくても、仕事を事業を立派にやっている先輩はいくらでもいるのにです。その反動が形を変えて人格に止まらず、社会の形成に影響を与える場合も多いのです。学校の病理、社会の病理ともいえるのかもしれません。案外、それは、学校という社会、教師に巣くっていることかもしれません。教師にそんな人が多いのです。そう言えば、訓練校の先生が元教員は資格が取れないと断言していました。序列の弊害そのものの現れです。

その始まりが小学5年生です。学力テスト1位の秋田では、そのはじまりの5年生に着目しているようなのですが。

さて、自信を持って生きることの大切さ、主体的に生きることの大切さは、シュタイナーが教えています。わたくしは今から、40数年以上も前、それをもじって、「したいなあ学院」と名付け、プレートまで作って、出世払い方式の無料の塾を構想していたことを思い出します。わからないままにいること、わからないことがあること、わたくしはもちろん、ほとんどの人が感じていること、感じるべきことでもあることなのです。謙虚さは,自信をもって生きるうえにも大切な価値なのです。

カウンセリングマインド まず親が教師が

カウンセリングマインドは相談する心と訳されますが、英語にはなく、日本での造語です。つまり、日本語なのです。

カウンセリングは、相談者が指示や注入するのではなく、共感的な理解のもと、個の自発性や主体性が発揮されて、自らの力で解決させようという、古代ギリシャの時代からの「対話」を源泉とする問答法を正統に継承した手法ということができます。

明治維新以後、日本の文化や文学の歴史は、全体から個への価値の転換の歴史のようにいわれますが、本当の意味で個人の確立が実現したかどうか、今日においても、大いに疑問があります。

戦後、アメリカの教育使節団の指導の下、カウンセリング活動が教育現場に導入され、中高にディーン室とか生徒指導室がつくられました。活動の衰退と教室不足でその部屋も消えました。荒れる学校の時期を経て、児童・生徒の減少で、空き教室の増加とともに、また、相談室の看板が、また見られるようになりました。しかし、その精神は、相談室の中にだけでなく、もちろん親子関係にも、子弟関係、職場の人間関係にも求められる、一人一人が尊重される関係を構築しようとするものなのです。

いじめや不登校は、臨床心理士の配置で決して解消されるものではありません。

むしろ、カウンセリング運動がめざしてきたものが学校の社会,殊に教員の社会に、真に根づくことが求められているのです。そして、それは、その社会に真に定着してこそ解決されるものと言うべきものなのです。毎年、教員採用試験のキーワードになっていますが、ニイル「問題の教師」が指摘するように、教員の社会に一番馴染まない概念といってもよい言葉でもあります。

かけがえのない個人を大切にすること、それは、また、他を大切にすることにつながります

そんな価値の実現する社会の構築が子どものいじめをなくす唯一の術だとだけは断言できます。そんな社会を今私たちの手で作ろうと思いませんか。仮に、そんな社会がどこにもなくとも、ここに築こうと思いませんか。そのために、まず親や教師にカウンセリングマインド備わることが求められているのです。

試験問題から覗ける学校文化

長年、受験に携わって、長い年月、その学校の試験問題に触れていると、学校の持つ文化が垣間見えてきます。ごまかしの効かないものといえます。

歴史と伝統のある学校の問題はその実力を示します。試験問題から、先生の力だけでなく、学校の文化や伝統の力がわかります。それはどうしようもなく現れてしまうのです。

学校を知りたければ、その入学試験の問題を見るのが一番とも言ってよいのです。できれば、優れていると評判の他校のいくつかと比較することをお薦めします。

高卒認定試験  合格してからが本当の勝負です

本人自身がその気になればその努力が報われる試験です。本人が、本気になれば、本人が覚悟した期間よりは、はるかに短期間に、高卒認定試験に合格しています。結果的に一教科の受験で認定されてしまうような場合もあります。試験自身の合格であるならば、それほどのものでもないなと思うことが多いのです。

ところが、その先のところで妥協を強いられることが多いのです。サポート校の推薦や自己推薦などの方法で進学できる学校が、ごくごく限られてしまっているからです。

高卒認定試験は高校の卒業資格、大学への入学資格が得られるだけで、目指す大学への進学にはもうひとつ入学試験という関門があります。それは高校を卒業しても、推薦入試を除いて、入学試験があるのと同じことなのですから、不平等でもなんでもなく当然と言えば当然のことです。しかし、大学入試との間に、極端に厚い壁を親も子も感じてたじろいでしまいがちなのです。

高卒認定試験合格は、これからの人生を切り拓く、第一歩にすぎないのです。高卒認定試験に合格してからが本当の勝負なのです。

すべての試験は、合格自身が目的ではありません。その先にあることをするために必要なのが資格であって一通過点に過ぎません。更なる飛躍のために更なる努力とそれに耐える気概をもって同世代と伍して堂々と闘い汗して得た合格の体験が、その後の人生に生きるものであることは間違いありません。同世代と共に青春を謳歌してこそ挫折からの卒業だと思うのです。わたくしは、それにこだわって指導して、悩むことも迷うことも多いのですが。

親御さんの心配をよそにたくましく成長する若者にわたくしは出会っています。しかし、そうそうあることでもありません。

英語の早教育

小学生や幼児が英語教室へ通うのが既に当たり前なっています。わたくしは、中学校で英語を教えた経験がありますが、幼児から英語塾に通っていた子どもたちから、「あれだけ時間をかけたのに、役に立たなかった」という感想をよく聞きました。

日本語教育と英語の早教育が学習の上で相互に干渉しあうという意味だけではなく、ただただ遊びにしかすぎないという意味のレベルででもです。

鳥飼久美子先生など実績のある英語指導者の「英語教育は、中学校からでよい」という考えに耳を傾けたいものです。

高校に国際コースなるものをたくさん設置され、海外留学の話をよく耳にしますが、その成果はいかがなものでしょうか。

40年も前にアメリカで遊び、30年も前にインターナショナルスクールで教え、帰国して英語を教えた者として、わたくしは、英語の早教育にむしろ否定的・懐疑的な意見を持っています。

母国語である日本語から、思考力や論理の能力、読書力の育成が、まず望まれるのです

人間は、国語というその文化遺産である言葉で考え、それに基づいて行動します。その形成が先決であるからです。外国でも、日本でも、外国語の早期教育の弊害による症例が相当の昔から報告されています。

実際、海外にいたときも、英語の教鞭をとっていたときも、英語を幼児から何年も習わせた親から、「こんなはずではなかった」という後悔の言葉を何度も聞きました。普通に、中学から、英語を学校で習い、それだけで、TOEIC満点に近い人や英検1級に合格した人がわたくしの身近にもいるのです。

そうは言いながらも、小学校に英語の学習が始まってしまって、最近は、求めに応じて、小学生に英検の指導をしてきてしまいました。わたくしは、NHKのラジオやテレビでの基礎の英語番組から始めることを、英語を教えはじめたときからずっと薦めてきています。

英語の早教育、それによって、失うものは、決して少なくないと改めて感じてきています。

見守っていてくれているという 安心

わたしの学生のころは、非指示的な心理療法のロジャースの全盛時代でした。わたしには、エンカウンターグループが宗教団体や秘密クラブに感じられました。大学を卒業しても、なかなか大人になれないわたしに勧められた仕事のひとつに、心理カウンセラーへの道がありました。わたしが属していた教育心理学会などで、臨床心理士の認定制度が検討されていました。いろんなテストの記録法のしかたを体験し、その大家の記録を読むと、とても手間のかかるしんどいものとわかり、自分には不向きとしか思えませんでした。

ところが、いざ教員になってみると、わたしは教育相談の担当をどこの学校へ行っても任せられました。学校というところが、教育相談といった内部告発的な部署の繁盛を望むはずはありません。学年主任のときも、学校の警察といわれる生徒指導主事のときも、教務主任、教頭のときも担当していて、悪戦苦闘しました。

それでも、ちょっと得なことがありました。親御さんから、先生が心配して見守ってくれているから、安心しているようですという感謝のことばをいつもいただいたことです。妻は、しかし、わたしの所業に迷惑していました。自宅に不登校の子などを預かったりしたからです。

学校選び 塾選び そして合格する親の条件

鶏頭となるも牛後となるなかれ

塾選びには、牛後でがんばる選択も大いに意味があります。

しかし、学校選びにはこのことばに全面的にしたがうべきです。多くの親御さんはお子さんのことを考えないで、自分のその場の見栄のために牛後になるのが目に見えている選択をしがちです。学校選択をする時期がくるたびに、その思いを強めることです。

孟母三遷の教え

よい学校はそうそうあるものではありません。

学校の特性や雰囲気などその学校の持つ文化はお子さんを決定的に左右させます。個性が強い学校ほど様々な問題を生起させます。なぜか、必要以上に宿題を出したり、強権的であったり、また、いわゆる成金趣味であったり、そんな学校が繁盛しています。

お子さんが合えば、それはそれでよいのかもしれませんが。

学校選びに限らず、何に対してもそうですが、それを選択した理由や意味を繰り返し自問すべきです。

たまたま合格したうち、難易度だけの基準で学校を選択し、入学を決定するという学校選びをしがちです。小学校受験や中学校受験が盛んで、そんな風潮を煽っています。長い間勉強して、せっかく合格した学校なのだからという調子でです。ろくでもない学校は、公立校・私立校を問いません。学校自身をよく調べておくべきです。いくつか学校があれば、ランクの高い低いは当然に生まれているだけなのです。

よい学校はそうそうあるものではないことを心してください。

子とともに成長できる親であること

音楽の教育法に鈴木メソッドといわれるものがあります。

楽しく学ぶ、親も子とともに成長するという教育の要諦を簡潔に示しています。 子どもを産めば親になりますが、子育てはそのための学習によってはじめてできるようになるものです。よい親になるにはよい親になるための学習が欠かせません。

学校の後にこそ

学校に入ることが目的でないと同様、卒業することが最終目的でもありません。社会に巣立つための準備が学校の目的なのです。子どもを見つめ、その個性を生かし、少々の子どもの迷いにたじろがず、将来に向かって自ら羽ばたたこうとする果敢な子どもに成長させる、そんな賢明な親でありたいものです。